イベリスの残映 Category:文字 Date:2022年03月02日 1「まだ、そこにいるのか」 少年はその声を聞いて我に返った。 迫る夕闇がじわじわと景色を変え、狭い路地に影を落としている頃だった。 呼吸が上手く出来ない。視界が揺れる。息を吸うと、冷たい空気が身体の芯を蝕む感覚がする。冷え切った右手を強く握り、掌にある物の感覚を確かめる。それから声の主に目をやった。 少年の目下には壁に持たれかかるように倒れている男がいた。脇腹は黒く染まっており、濡れた地面には汚れたナイフが転がっている。 陽が落ち、二人の姿が闇に沈んでいく中で、男の濁った目は少年の顔をじっと見据えていた。 少年は彼から目を背ける事が出来なかった。沈みかけた思考を必死に巡らせる。 もうここにいる理由は無い。必要な物は取り返した。早く行かなければ。(どこへ?) 過ぎった単純な疑問を頭の隅に追いやろうとする。行くべき場所は決まっている。迷う必要は無いはずなのに、体が思うように動かない。 一歩、後ろに下がる。じゃり、と靴が地面に擦れる音が嫌に大きく聞こえた。「俺を見捨てて、逃げればいい」 心臓が高鳴る感覚がする。 男の表情は暗闇で分からない。低い、掠れた笑い声が聞こえた。「お前の家に帰ればいい」 少年は男の言葉を聞こうとはしなかった。返事もしなかった。気づけば目を背け、その場から駆け出していた。あとは無我夢中だった。正体の分からない疑問から、男の言葉の意味から、自分を取り囲む全てから逃げるように走っていた。遠くに見える街灯の微かな光が、自分がずっと求めていた仄暗い希望に見えた。 ただ男の最期の姿が、彼の投げかけた言葉が、少年の記憶にずっと焼き付いていた。「そこにもうお前の席は無い」「見放されたお前に、帰る場所は無い」*** PR